http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/09/15/204546
先日、関東大震災時の「藤岡事件」で虐殺された被害者の遺族2名が来日し、事件から
95年目にして初めて、現地での慰霊祭に参加したという報道があった。
この事件は、震災発生から4日後の9月5日と翌6日、群馬県多野郡藤岡町
(現・藤岡市)で発生した。
「関東」大震災といっても、震源(相模湾付近)から遠い北関東のこのあたりは揺れも比較的小さく、
地震そのものによる被害は軽微だった。また、地震と火災で壊滅状態になった東京や横浜では
深刻な食糧難が発生したが、農村地帯のこちらはむしろ被災地に食糧を供給する側だった。
つまり藤岡事件は、地震による混乱もない中、朝鮮人への差別意識を流言によって煽られた
民衆が実行した、「純粋なヘイトクライム」だったと言える。
この藤岡事件も含め、朝鮮人を虐殺したとして自警団員が起訴された事件はわずか22件
(被告人総数203名)しかない。(軍隊や警察が加害者となった事件は最初から無視。)
これは、当時の日本政府の方針が、法治国家としての責任を果たしたかのような外観を
作るために一応加害者(ただし一般人に限る)の処罰はするが、やりすぎるとデマを流した
官憲自身の責任を追求されかねないのでそれは最小限にとどめる、というものだったからだ。
藤岡事件の場合、37名が起訴されたものの、実刑判決を受けた加害者は裁判が進むにつれて
第一審:25名 → 控訴審:9名 → 上告審:2名
と減少し、最高刑も懲役3年に過ぎなかった。日本人9名が虐殺された福田村事件では
最終的に実刑7名、最高刑が懲役10年だったのに比べると、いかに朝鮮人の命が軽く
見られていたかが分かる。
しかも起訴した検察は、朝鮮人の虐殺そのものよりも、その過程で被告人らが
警察署を襲撃し、署内の器物を損壊したことのほうを重大視していた。
検察から見れば、朝鮮人虐殺は官憲も民衆と共有していた(というより大日本帝国
政府が長年民衆に植え付けてきた)差別意識の暴発に過ぎなかったのに対し、
警察署襲撃は許されざる権力への反抗だったからである。
先日、関東大震災時の「藤岡事件」で虐殺された被害者の遺族2名が来日し、事件から
95年目にして初めて、現地での慰霊祭に参加したという報道があった。
この事件は、震災発生から4日後の9月5日と翌6日、群馬県多野郡藤岡町
(現・藤岡市)で発生した。
「関東」大震災といっても、震源(相模湾付近)から遠い北関東のこのあたりは揺れも比較的小さく、
地震そのものによる被害は軽微だった。また、地震と火災で壊滅状態になった東京や横浜では
深刻な食糧難が発生したが、農村地帯のこちらはむしろ被災地に食糧を供給する側だった。
つまり藤岡事件は、地震による混乱もない中、朝鮮人への差別意識を流言によって煽られた
民衆が実行した、「純粋なヘイトクライム」だったと言える。
この藤岡事件も含め、朝鮮人を虐殺したとして自警団員が起訴された事件はわずか22件
(被告人総数203名)しかない。(軍隊や警察が加害者となった事件は最初から無視。)
これは、当時の日本政府の方針が、法治国家としての責任を果たしたかのような外観を
作るために一応加害者(ただし一般人に限る)の処罰はするが、やりすぎるとデマを流した
官憲自身の責任を追求されかねないのでそれは最小限にとどめる、というものだったからだ。
藤岡事件の場合、37名が起訴されたものの、実刑判決を受けた加害者は裁判が進むにつれて
第一審:25名 → 控訴審:9名 → 上告審:2名
と減少し、最高刑も懲役3年に過ぎなかった。日本人9名が虐殺された福田村事件では
最終的に実刑7名、最高刑が懲役10年だったのに比べると、いかに朝鮮人の命が軽く
見られていたかが分かる。
しかも起訴した検察は、朝鮮人の虐殺そのものよりも、その過程で被告人らが
警察署を襲撃し、署内の器物を損壊したことのほうを重大視していた。
検察から見れば、朝鮮人虐殺は官憲も民衆と共有していた(というより大日本帝国
政府が長年民衆に植え付けてきた)差別意識の暴発に過ぎなかったのに対し、
警察署襲撃は許されざる権力への反抗だったからである。