
金与正氏は1980年代後半に生まれ、幼いころに兄とともにスイス・ベルンで過ごし、公立の小学校で学んだ。
金与正氏の性格を象徴するのが、情報当局者の間で共有されている次の話だ。
1990年代前半に金正哲、金正恩両氏の兄2人がブラジル旅券で来日し、東京ディズニーランドを訪問した。
この時、金与正氏についても在オーストリア日本国大使館でビザが申請されたが、日本側に何らかの情報が入り、拒否された。当時、金与正氏は10歳に満たない年齢だった。
「金与正氏は負けん気が強く、『お兄ちゃんばかり行ってずるい。悪いのは“中野学校”だ』と怒った」(ある情報当局者)。
「中野学校」とは、金総書記の専属料理人だった日本人の藤本健二氏(仮名)を指す――。
留学が終わり、帰国後は金日成総合大学に入学して物理学を学んだといわれる。
2011年12月17日に金総書記が死去した際、錦繍山記念宮殿(当時)を訪れ、金正恩氏や党最高幹部の列に加わって金総書記の霊前に哀悼の意を表しているのが確認された。
金正恩体制になってから次第に政治活動に加わるようになり、党中核機関である宣伝扇動部の副部長を務める一方、党での地位も中央委員、政治局員候補と上がっている。
ただ、2019年2月に米朝首脳会談が決裂したあと、動静が一時途絶えた。韓国側の情報によると、米朝対話では、金英哲党統一戦線部長(当時)が前面に立っていた。
この金英哲氏に米朝交渉を統括させるよう金委員長に助言したのが金与正氏だったとされる。だが金英哲氏が指揮を執った米朝首脳会談は決裂し、
金与正氏は「40日間の事業停止(活動停止)」の処分を受け、政治局員候補からも解任されたという。
復活後は再び露出を強め、現在は党の核心機関である組織指導部の第1副部長を務める。
今年3月には、金与正氏名義の談話を初めて発表し、韓国大統領府を強い言葉で非難すると同時に、国政運営に強く関与している点を印象付けた。
(参考資料:融和イメージから一転、北朝鮮の「姫」金与正氏が韓国に「差し出がましい」)今年4月に開かれた党政治局会議では再び政治局員候補に選出され、権力中枢での地盤を固めた。
https://news.yahoo.co.jp/byline/nishiokashoji/20200505-00177076/